Byungchae Ryan Son

ウイスキー…よくわかりません。

  • 作成言語: 韓国語
  • 基準国家: すべての国家country-flag
  • 食べ物

作成: 2024-05-22

作成: 2024-05-22 10:43

6年前、ウイスキーハイボール調査のため日本に行きました。昼間の空港から宿泊施設へ向かう途中に立ち寄る小さな商店から訪れました。本当に小さな規模の居酒屋が多く、1万円にも満たないお金で簡単な天ぷらと冷たいハイボールを味わいました。


夕食に訪れた3つの飲食店では、メニューにぎっしり詰まったハイボールの種類を全て味わおうとして、かなり酔っぱらってしまいました。幸い、案内役を引き受けてくれた本社出身のクライアントの方は寛大に理解してくれました。


翌日、訪問した蒸留所では、白髪の従業員の方が本社の配慮で提供された特別なワークショップを実施してくださいました。進行役を務めてくださった方は、生涯を蒸留所で過ごしてきたとおっしゃっていました。その後、日本式の定食を食べて、宿泊施設近くの『バー』を訪れました。

ウイスキー…よくわかりません。

店に入ると、60~70代の客が多く、何とも言えない違和感を感じました。時間は夜の7時頃だったことを考えると、同じ年代の私の母親なら食事の準備をしている時間帯でもあります。その瞬間、店にギターを背負った派手なヘアスタイルの50代くらいの男性が入って来ましたが、席がないことを確認すると、すぐに引き返して出ていきました。


すると、店の真ん中あたりに座っている60代くらいの女性客を見つけました。その方は、自宅から飲みに出かけられたのか、とても楽な服装にスリッパを履いたまま、壁に掛けられたテレビのニュースを見ながら、ウイスキーを1杯ちびちびと飲んでいます。

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日本は1920年代から国内でウイスキーを生産してきました。ウイスキー留学に出かけた竹鶴政孝が、現地の蒸留方法と設備について全てを直接筆記および図を描いて帰国した後、輸入ワインを販売していた事業家鳥井信治郎と出会い、共に事業を始めることが、日本ウイスキーの始まりと言われています。


その後、一般の人々にウイスキーを酒のつまみとして飲む習慣を提案するために、日本料理のコース料理にウイスキーを合わせた写真集の制作、ウイスキーのみを取り扱う全国1000店舗のフランチャイズバー事業の展開など、日本国内のウイスキーブランド企業の努力は、現在の日本人が幼い頃から経験してきたウイスキーに関する経験を積み重ねてきました。私が観察した光景は、こうした背景があったからこそ確認できる当然の瞬間だったに過ぎなかったのです。


だからでしょうか、日本人の視点からすると、国内で活躍する営業チームがウイスキーについてよく知らないように見えるという一言が、何となく理解できるようになりました。

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別のプロジェクトでインタビューする機会があった韓国オフィスの営業チームメンバーの方々は、最低でも13年以上の実績のある酒類販売経験者でした。新しいウイスキーブランドの発売に合わせて紹介資料や営業トークを整理するために、店主の方々が限られた時間の中で最も必要とする製品情報が何かについて、豊富な経験談を共有してくださった方々でした。それでも、ウイスキーという素材において越えられない理解の壁があるとすれば、それは日常で接してきたウイスキー文化の違い以外にはないという結論に至りました。


営業チームの方々は、ウイスキーを幼い頃から一種の密造酒として経験してきたと言っていました。裕福な家の友達の父親が食器棚に大切に保管していた洋酒。韓国では酒類市場の輸入自由化が1980年に実現し、一時は国家産業として奨励されたものの、気候の特徴上、蒸留後に残る原液が少なく、収益性が低いため消滅したウイスキー生産意欲などの背景の違い。接待文化に沿ったウイスキーの流通経路に沿って、彼らが経験してきた営業は、日本よりも少し陰の部分での活躍と理解されることもありました。

ウイスキー…よくわかりません。

調査日程を終え、観光地として有名な大阪城を訪れました。


桜で埋め尽くされた大阪城を観光していると、いつの間にか豊臣秀吉神社に足を踏み入れていました。そうです、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を引き起こした張本人です。


それを確認した後、引き返してすぐに空港に向かいました。

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製品の本質は固有です。


しかし、どの国、地域かによって、製品の意味は大きく異なる可能性があります。

この違いを理解し、尊重して市場に参入することは、マーケティングや営業で確認される態度、メッセージ、戦略そのもののニュアンスをより有利に導くことができます。

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